今回がラストになります「道は開ける」シリーズ。全部で5回でした。と思ったらこのPART5は「宗教とは~自分が考える宗教の定義~」というようなものになってしまいました。宗教に対しての自分なりの新しい見解をまとめました。自分の中で宗教に対するパラダイムがシフトしました、というようなことを書いています。ではさっそく
。
「真に宗教心の深い人間は神経症には冒されない」
これは驚きました。私自身は日本人というあまり宗教に疎い人種(私がそう思っているだけかもしれませんが)として生まれてきました。少なくとも私の家庭ではあまり宗教心は強くありません。宗教というとあまりいいイメージを思い浮かべません。なんせ日本には大きな事件もあったのですから、それが純粋な宗教への冒涜というか、悪いイメージの刷り込みに一役買ったといっても言い過ぎではないと思います。
その出来事とは「オウム真理教」がらみの事件などです。現在もアレフと名前を変えて実在する宗教団体でもあります。では私が持っている宗教へ対してのステレオタイプとは何か。
1.法外なお金を巻き上げられる
2.信者は狂っている
3.人殺しを平気でする
4.頭がいい人がそろっている
5.洗脳されている
6.本当に空が飛べるとか信じている
とまあ「負」のイメージしか出てきません。これはちょっと客観的に見てみると、メディアがオウム事件のニュースで流していたものそのものに過ぎないということが分かります。勝手に自分の中で「宗教=オウム」という方程式ができあがっていたのです。そうなることで宗教を全面的に否定的な態度で見てきたことになると思います。オウムの地下鉄サリン事件は1995年のことなので、現在の2009年にわたる約13年間のあいだ私は宗教のことを否定的に見てきたことになります。
実際にこの本を読んでいてもはじめは「宗教なんて・・・」という考え方はなかなか頭から離れませんでした。しかし宗教に救われたあまりにも多くの人の証言や実際の体験を目の当たりにして私の常識がくつがえされました。しっかりと客観的に見てみるとしっかりと宗教というものが見えてくるものです。私の尊敬するガンジーも信仰心はすこぶるつよかったと彼の自伝に書いてあります。そしてこの本にも引用されています。
『祈りがなかったら、私はとっくの昔に気が狂っていたであろう』
それから私の友人の父親も創価学会に入っているのですが、いわゆるこれも宗教です。その友人の親父さんは人口の5%といわれる高年収の層に入っています。その親父さんが宗教のおかげでそうなったかはさだかではありませんが、世の中には宗教というものを深く信仰することで幸せになっている人を多く見かけるように思います。そんな宗教に対してプラスの考えが見られる、300年以上前のフランシス・ベーコンの言葉を見てみるとする。
「浅薄な哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を宗教へ導く」
これもすごい言葉である。全面から宗教を肯定し、むしろ崇拝している。では一体宗教とは何なのか?広辞苑によると―神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する進行・行事、またそれらの関連的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教、特定の民族が信仰する民族宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など、多種多様。多くは教祖・教義・典礼などを何らかの形で持つ―とあります。
なんともかたっくるしい表現でなんと理解のしにくいものでありましょうかねw。広辞苑を見ても宗教の本質が見えてこないので、この本からちょっと自分なりに宗教とは何なのかというのを理解しようと思います。
私の以前の考え方では「宗教とはなんと依存的な考え方なのだろうか」というイメージでした。しかし、人間一人で生活するとどうしようもない状況に陥ることがあります。私はまだそこまでの大きなターニングポイントというか点を通過していないのですが、もし自分ひとりの力では這い上がれないくらいの闇に閉ざされてしまったらと考えると、神という力は非常に私たちの精神を平静に保つのに一役かると思いました。そのような体験というのは今、本を読んでみると良く分かります。
ありえない状況、もう死ぬしか選択肢がないような状況に陥ったとき、深い信仰心を持っている人はそんな瀬戸際の状況で一筋の光を「神」という存在の助けを借りて見つけることができます。決してこれは神に依存しているのではなく、自分ひとりではなく「神」がいるということによって安心感がうまれてくるというのでしょうか、なんとも表現しがたいのですがそんなことだと思います。
世界にはさまざまな宗教があります。主なものが広辞苑に載っていた世界宗教。世界を見渡すと宗教にすがっている人が実に多いことが分かります。
こんなことを言ってしまってはそれぞれの信仰者から大批判を浴びると思いますが、ちょっと自分なりに考えた宗教の意義というのを述べたいと思います。
宗教とはさまざまな種類があるが、元をたどると一つの原点にたどり着く。それは人々を救うこと。その歴史は紀元前にさかのぼり、人生の「普遍の事実」をしった各地の人々がそれを宗教という一つの形として創造した。その「普遍の事実」とはどれだけ長い年月がたったとしても変わることがなく、文字通り「普遍の事実」なのである。
その考え方は現代の世界にも深く根付いている。それは形を変えて自己啓発という形で書籍として出版されている。特にこれは宗教という雰囲気はぜんぜん感じることができないが、自己啓発というのは元をたどると宗教の教義にたどり着くような「普遍の事実」を人々に教えているように思います。
その「普遍の事実」にそって人生を送ることによって、人々は幸せになれる。そんなことを宗教の開祖は何千年も前から知っていた。その「普遍の事実」について、紳士に受け止めしっかりと実行した人々は、しばしばそれを奇跡のように感じる。そうなるとその「普遍の事実」について非常に大きなパワーを感じ開祖を神のように崇めるようになる。
これはきわめて普通の流れであり、何もおかしいことはない。私には宗教とは(悪い面を除くと)非常に当たり前のことを、当たり前にやることで幸せをつかませてくれるもので、ときにはどん底に陥ったときに一筋の光を見せてくれる、そんなものではないかと思う。開祖は神として崇められ、「普遍の事実」は教義となり、それを信じる人たちを信者という、そんなようになったのが宗教ではないかと思います。
ちょっと長めのまとめでしたが、これが今回自分が認識した宗教に対しての考え方です。
今度はगौतम सिद्धार्थ(釈迦)
の本でも読んでみようと思います。トップにある写真はगौतम सिद्धार्थのイメージですが、なにせウィキピディアから引っ張ってきたので本物かどうかはちょっと怪しいです。